【男の生き方、人生の楽しみ方】第4回「平田豪成さん(まなばんば葉山代表)」

2021/06/22

平田豪成氏_授業する平田さん

いつまでも魅力的な男であり続けたい——。【男の生き方、人生の楽しみ方】と銘打った本連載はそんなテーマで取材している。これまで書いてきて思うのは、その燃焼した生き方が(自ら望むと望まないにかかわらず)「男の魅力」となって醸し出されるということだ。


DANTES世代ともなれば、成功や喜びだけでなく、挫折や悲しみも知っている。筆者はこれまで、挫折や辛い経験がないままで魅力的なオーラを発散している男性には会ったことがない。

今回紹介する平田豪成(ひであき)さんも様々な経験を重ね、72歳の今も自分の想いを実現すべく疾走を続けている。そんな平田さんの生き方からDANTES世代が学ぶべき点は多い。



10歳になるまでに「生きる力」を

6月の某日、神奈川・葉山にある「まなばんば葉山」を訪ねた。

そこは平田さんが4年前に開設した、幼稚園・保育園・小学校の児童のためのアフタースクール。子供たちの「生きる力を育む学び場」をコンセプトに、独自のメソッドで作文や英語、アートなどの表現力を養うトレーニングを行っている。

「私は、複数の専門学校を運営する学校法人で中退防止に取り組んで一定の成果を上げることができましたが、その時強く感じたのは、中退防止には18歳からでは遅い、ということです」


平田豪成氏_まなばんば葉山の前庭で

【まなばんば葉山の前庭で】

 

中途退学の根本的な原因のひとつは「生きる力」の不足だと痛感した平田さんは在職中、保育園も10園作ったという。

その学校法人で常務理事まで務めた後、平田さんは中途退学や早期離職などの社会課題を解決するべく、3歳から9歳までの「生きる力」を育むキャリア教育の場を創ることを目指す。そして開設したのが「まなばんば葉山」だ。70歳を過ぎても新たな事業に最前線で取り組む、そのバイタリティーの原点はどこにあるのだろうか。


職業軍人だった父

平田さんは1948年、広島県で生まれた。

まさに団塊の世代のど真ん中である。

「親父は職業軍人でね。昔の高等小学校を出て陸軍に入り、中国大陸やフィリピンを転戦し、敗戦の混乱の中で帰国したんですが、いわゆるポツダム少尉で、終戦の時に一階級進級して少尉としての恩給がもらえるようになったんですよ」

そんな父親を平田さんは昨年出版した自伝的小説『約束』(論創社)で、「子供のころ父に戦争の話をせがんでも『戦争はいけん。戦争なんかしちゃいけんのじゃ。ええことは何もなかった』と言って、子供が望むような劇画的な戦闘場面の話はしてくれなかった」と回想している。


平田豪成氏_自伝的小説「約束」を手に

【自伝的小説「約束」を手に】

 

後述するが、筆者は平田さんがバリバリの学生運動活動家だったことを知っていた。そのため、「職業軍人だった父親に反発して反戦運動にのめり込んだのではないか」と推測していたのだが、平田さんは「典型的な戦前の男という感じでね、男は余計なことはしゃべらず、自分の考えで生きていくべきだと、背中で教えてくれるような人でしたね」と父親に対する尊敬とも憧憬ともとれる深い愛情のようなものを吐露してくれた。


文学少年から学生運動の闘士へ

少年時代の平田さんは、真面目な文学少年だったという。

「子供のころは特に夢とかはなかったですね。普通の優等生ですよ。ただ、語学の仕事がしたいな、とおぼろげに思っていました。外交官になって青い目のお嫁さんもらいたいとか考えていましたね(笑)」

その後、地元有数の進学校である県立高校に進んだ平田さんは、図書館で片っ端からアメリカの翻訳小説を読み漁ったという。レイモンド・チャンドラーやヘミングウェイなどの小説だ。

高校卒業後、大阪の国立大学に進学したが、入学直後のある出来事が平田さんの運命を大きく変えることになる。

「ある日、神戸の女子大の学生たちと大阪の服部緑地に合ハイ(合同ハイキング)に行ったのです。その時、ラジオから『佐藤訪ベト反対闘争』、いわゆる羽田闘争を伝えるアナウンサーの甲高い声が流れ、聴き耳を立ててたんですが、なんとデモの最中に京大の山﨑博昭君が亡くなったと知った。(同年代の若者が命がけで戦っているときに)合ハイにうつつを抜かしていた自分を恥じるというか、良心の呵責に苛まれて放心状態になってしまったんです。自分にとってはエポックメイキングな、ショックな出来事でした」


ほどなくして、平田さんは熱心な学生運動の活動家になっていく。

その間の平田さんの体験や想いは前述の『約束』に詳しい。文学少年が学生運動に目覚め、活動にのめり込んでいく過程と波乱の日々がリアリティ溢れる筆致で綴られている。

しかし、平田さんは70年頃を境に学校を辞め(満期除籍)、学生運動にも距離を置き始める。それでも、大学入学直後に抱いた問題意識が消えることはなく、普通に就職する気は起きなかった。

医薬品業界紙の記者を経て映像プロダクション「シネマ・ネサンス」の創設に参画。76年には吉行和子、根岸季衣ら出演のオムニバス映画「眠れ蜜」(岩佐寿弥監督)をプロデュースした。その後、沖縄に移住してタウン誌の編集をするなど様々なことにチャレンジ。

転機となったのは83年、35歳の時。

大阪の友人の紹介で複数の専門学校を運営する学校法人に就職した。


平田豪成氏_20代の業界紙記者時代

【20代の業界紙記者時代】

 

入社6年で常務理事昇進、70歳を過ぎても戦い続ける

「最初は長くいるつもりはなかった」という教育業界だが、ここで長年抱えていた問題意識に火がつく。

平田さんは、その持ち前のパワーを発揮し、東京を中心に広い分野にわたる専門学校を新規開校していったのだ。

なんと、入社6年目には常務理事にまで登り詰めた平田さんは、前述のように「中途退学防止」に注力。その間の奮闘は後年、『中退0の奇跡へ』(カナリア書房)、『子供たちの生きる力を育む学び場』(キャリア教育総合研究所)などの著書にまとめている。

そんな平田さんを支えてきたものは何か?

平田さんの好きな言葉はW.H.オーデンの「見る前に跳べ」。つまり、「やってみなければわからない、やりながら考える」という信念だ。

その言葉には軽さはない。「まだまだ走るぞ」というアグレッシブさと重厚さ、戦い続ける男の魅力がある。

平田さんは、常に徹底的に考える。妥協はしない。流されない。時に相手とぶつかり合う。

「学生運動に身を置いていた時も、何でこうなったのか?と自分なりに考えて、自分で納得することが大事だと感じていました」

そのうえで、「体験したことを自分の言葉にできないとダメ。行動を言語化するんですよ」と言う。

コロナ禍が長引き、先の見えない中で疲労感が蓄積されていく時代。

社会や時代、コロナのせいにして「仕方ないよ」と自分自身を納得させ、小さくまとまってしまってはいないだろうか。

平田さんはそんな考えとは真逆の生き方を今も実践している。

ところで、平田さんは今も葉山で、50代から続けているサーフィンを楽しんでいるという。

いくつになっても、自分のやりたいことに挑戦する。「まず、やってみる」を実践しているのだ。

「やってみもせんで、何がわかる」という本田宗一郎の名言があるが、ともかく人生は自分の力で切り開くことだ。それには年齢など関係ない。「もう年だから」を言い訳にして何もやらないのは人生の足枷でしかない。

平田豪成氏_サーフィン平田豪成氏_50代からサーフィンを続けている(右)

【50代からサーフィンを続けている(右)】

 

MUSTで自分を縛らない

最後に、平田さんから読者へのメッセージ。

「MUST(しなければならない)で自分を縛らない」

昨年から今年にかけて、平田さんは学校法人のすべての職を辞した。「体験の上にあぐらをかいてしまうのが嫌だった」というのがその理由。

同じ景色を見続けていると、MUSTに縛られている自分自身に気づかなくなってしまうこともあるだろう。

この言葉を読者はどう捉えるか?

人生100年時代。50歳なら折り返し地点、60歳でもあと40年ある。

平田さんの生き方や考え方を、これからの自分の人生のヒントにしていただきたい。

平田豪成氏_インタビューカット

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この記事のライター

大澤尚宏

大澤尚宏

リクルートを経て広告プロデューサーとして活動。1995年にバリアフリーライフ情報誌を創刊。2008年にミドル&シニア世代を対象にした「オヤノコトエキスポ」を開催し、2009年に株式会社オヤノコトネット(https://www.oyanokoto.net/)を設立。夕刊フジで毎週木曜日にコラム「人生100年時代 これから、どうする」を連載中。2020年から「日本を元気にする」をテーマに執筆やイベントコーディネート等も始めている。


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